ポーランドの旅ワルシャワ蜂起博物館と文化科学宮殿展望台

6月5日

今日が最後の滞在日で、1145ホテル発までが、つかの間の自由行動時間だった。

初日にワルシャワに着いて市内見学をした時に、ガイドのバシャさんから1944年のワルシャワ蜂起の話を聞いたので、是非、ワルシャワ蜂起博物館に行ってみたいと思っていた。

しかも、本日は月曜日のため、主だった観光施設は休館日。

蜂起博物館と文化科学宮殿の展望台は開いていたので、この二つに絞って朝食後すぐにタクシーで出かけた。

もう一組のご夫婦が同じ場所を希望していたので、相談して一緒に行くことにした。

ワルシャワ蜂起博物館

ワルシャワ蜂起博物館は祖国ポーランドの自由のために戦った人を記念するため、2004年のワルシャワ蜂起60周年に開館した博物館です。10月2日のオープニングには、蜂起に参加した市民、軍人はじめお年寄りから若者まで約8000人が参加しました。博物館はワルシャワ市内を走っているトラム、1908年に路面電車に供給する発電所が設置された跡地に作られています。この場所は1939年、次いでワルシャワ蜂起があった1944年にドイツ、ナチスドイツの破壊行為でダメージを受けています。

ワルシャワ蜂起当時の市民の暮らしについてや戦いについてを知ることができる博物館で中には写真映像や地図、当時の生活用品や戦闘機など、様な手法で展示されています。

ワルシャワ蜂起博物館は、丁度、高校生が社会科見学に来ていて、入り口で一緒になった。

エイビーロード観光案内より

ワルシャワ蜂起をご存知ですか?この博物館は、ずばりワルシャワ蜂起のみに的を絞った、ワンテーマ博物館です。第二次世界大戦末期の1944年8月、ドイツの敗戦色が濃くなったことを好機と見たワルシャワ市民は、武装蜂起を試みました。しかし、しょせん市民の寄せ集めのレジスタンス側は、ドイツ軍の敵ではありませんでした。応援に駆けつけると信じていたロシア軍も動かず、蜂起は完全な失敗に終わりました。ドイツ軍に徹底的に破壊され、焦土と化したワルシャワワルシャワ市民約20万人の命を奪い、美しかった首都は変わり果てた姿となりました。ポーランド人の心の傷はいかばかりだったでしょう。

蜂起した当初は、市民が一丸になって軍とともに献身的に戦ったそうだ。

士気も高く、密かに集まってコンサートを開いたり、司祭は、ミサを行って勇気づけたり、沢山の自主新聞も発行されたりした。また、市内の郵便物は、子供たちが配達したそうだ。

ワルシャワ市内の地下に張り巡らされた地下水道に潜って逃げる市民たち

しかし、出口をナチスドイツに襲われて壊滅的な事態になった。

66日間に及ぶナチスドイツの猛攻撃で破壊されてしまったワルシャワ市内の様子

3D映画、マルチメディアなど、新しい展示がたくさん博物館は、そのすさまじさを表しているかのように、館内全体がかなり暗めな照明の中での展示となっています。2004年にオープンした新しい博物館らしく、暗めな照明だけでなく、展示の手法が斬新で凝っています。博物館好きの心もくすぐりつつ、自然とワルシャワ蜂起の史実へと引き込まれていきます。

ワルシャワ蜂起までの歴史的な経過ブイキュレより転載

ワルシャワが首都として制定されたのは1611年のこと。その頃のポーランドは、北のパリと言われるほど経済的にも文化的にも大きな発展を遂げていました。しかし、18世紀末から第一次世界大戦終了までの123年間、プロイセン、ロシア、オーストリアの3国によって全ての国土を占領されます。ヨーロッパ最強と言われたこともあったポーランドにとって、国そのものが地図から存在を消した123年間は非常に耐え難い苦難の時でした。それでもポーランドとしての復活を諦めず、第一次世界大戦の後にようやく自国を取り戻すことに成功しますが、1939年9月1日、ドイツ軍がポーランドへ侵攻したことにより第二次世界大戦が開戦。爆撃と空爆が国全体を覆う中、首都ワルシャワは間もなく、ナチスドイツの占領下に置かれます。

Wikipediaより転載

1944年6月22日から開始された赤軍によるバグラチオン作戦の成功によりドイツ軍の中央軍集団は壊滅、敗走を重ねた。ドイツ軍は東部占領地域に再編成治安維持のために駐屯する部隊をかき集めて戦線の穴を埋めて防戦に努めた。

赤軍占領地域がポーランド東部一帯にまで及ぶと、ソ連ポーランドレジスタンスに蜂起を呼びかけた。7月30日には赤軍ワルシャワから10kmの地点まで進出。占領も時間の問題と思われた。ポーランド国内軍はそれに呼応するような形で、8月1日、ドイツ軍兵力が希薄になったワルシャワで武装蜂起することを赤軍と打ち合わせた1。

7月31日、ドイツ軍が猛反撃を行い赤軍は甚大な損害を被る。さらに赤軍は補給に行き詰まり、進軍を停止した。

国内軍には赤軍の進撃停止の情報は伝えられなかったうえに、その直前の7月29日にはモスクワからは蜂起開始を呼びかけるラジオ放送が流れ続けており、赤軍の位置からそのワルシャワ到着は大きくは遅れないと判断された。

8月1日17時ちょうど、約5万人の国内軍は蜂起を開始。兵士達は橋、官庁、駅、ドイツ軍の兵舎、補給所を襲撃する。

この時刻はWと呼ばれ、現在でも毎年8月1日の同時刻にワルシャワではサイレンが鳴り渡り、市民がその場で動きを止め、各自で1分間の黙祷を捧げるのが恒例行事となっている。

武器を持っていなかったポーランド人達は歯が立たない状態でドイツ軍によって反撃されてしまった。ドイツ軍の反撃は二月間にも及び、この間にワルシャワは徹底的に破壊され、戦死または殺害された市民は22万人に及ぶと言われてる。

ワルシャワ蜂起は、ワルシャワ市民の自国を守ろうとした抵抗心が今でもポーランド人の誇りとなっていることがわかった。

しかし、蜂起後のワルシャワ市民の運命は、悲惨だった。

鎮圧された市民は、みんなアウシュビッツへ送られて強制労働。市内に隠れていた千人あまりの人たちは銃殺されたそうだ。

ポーランド人は、ナチスドイツにも、ソ連にもひどい目に遭っていた。

スターリン体制下のソ連にとって、ワルシャワ市民のレジスタンス精神は邪魔者だったらしい。

ナチスドイツを倒した後に、ポーランドの独立心がソ連の支配を邪魔するものとして映ったのだろう。

このような苦難の歴史を背負いながら、今日のように国力を回復されている国民の努力には敬意を表したいと思った。

ワルシャワは、第2次世界大戦後、戦火で荒廃した旧市街を煉瓦のヒビに至るまで復元して往時の町並みを回復した。1980年、ユネスコワルシャワ歴史地区として世界遺産に登録された。

カチンスキ大統領のプレートが、蜂起博物館の出口の壁に掲げられていた。

出口の係の人から話しかけられて、このプレートを知った。

2010年4月10日、カチンの森虐殺事件の追悼式典出席のため現場に向かっていたポーランド政府専用機カチンの森付近に墜落。カチンスキ大統領ら97人が死亡した。

片言の英語のやりとりだったけど、係の人は観光客がこの博物館に来てくれたことをとても喜んでくださった。記念にシールもくださった。

カチンの森池上彰ニューズウィーク斜め読み記事より

第2次世界大戦中の1940年、ソ連の捕虜となっていた2万2000人ものポーランド人将校らが、ロシア領内のカチンの森で殺害されました。手を下したのは、ソ連国家保安委員会の前身の内務人民委員部。もちろんソ連の独裁者スターリンの命令によるものです。ポーランドを背負って立つであろう人材を根絶させておこうという恐るべき判断でした。

虐殺された遺体を発見したのは、当時のドイツ軍。ドイツがこれを公表すると、ソ連は、ナチスドイツの仕業だと平然と反論したものです。

第2次世界大戦後、ソ連圏に組み込まれたポーランドは、この事件を口に出すことができないままでした。そのこともあり、カチンの森事件は、日本国内ではほとんど知られていませんでした。

4月10日、この虐殺事件の追悼式典出席のため現場に向かっていたポーランド政府専用機カチンの森付近に墜落。カチンスキ大統領ら97人が死亡しました。本誌の指摘通り、この墜落事故により、カチンの森の史実を初めて知った人も多いことでしょう。実に皮肉な悲劇が起きたのです。

カチンの森については知っていた私も、本誌の記事で初めて知ったことがあります。事件当時、ポーランド亡命政府の首相だったシコルスキが、1943年に謎の飛行機事故で死んだことです。シコルスキはポーランドの公人として初めて、カチンの森事件についての説明をソ連に求めた人物だったというのです。謎の飛行機事故。何かを想像させる表現です。

今回の悲劇の事故前、ロシアのプーチン首相は、ポーランドのトゥスク首相と共にカチンの森事件の慰霊碑の前に立ち、初の合同追悼式に出席しています。このことは日本の新聞でも報じられ、私はてっきり、この場でプーチン首相がロシアを代表してポーランド人民に謝罪したのだろうと勝手に思い込んでいました。ところが、この記事によれば、プーチンは謝罪をしなかったというのです。

自国の歴史の暗部に向き合うことが、いかにむずかしいことかを痛感させます。それでも、事件自体を否定していたソ連の時代に比べれば、はるかに前進ではあるのですが。

ポーランドは、かつてナチスドイツとソ連に密約により、国土を分割されるという悲劇にも見舞われました。にもかかわらず、ポーランドとロシアの首脳が合同追悼式に出席するようになっただけでも、歴史の進歩と受け止めるべきなのか。

あらためて現代史の暗部を深く知りたい。そんなことを感じさせてくれる記事でした。

その後、文化科学宮殿まで歩いて行った。

ワルシャワ市内を一望出来る37階建て、234の巨大建築だ。

スターリンからの贈り物だったそうだが、ワルシャワの人たちには一番嫌われている建物だとか。でも、この塔に登るとこの建物が見えないから良いよまで言われていた。

でも、市内を一望したくて敢えて行ってみたけど、四方の眺めは素晴らしかった。

外に出たら、タクシーの組合デモが行われている最中だった。

タクシーには、国旗が掲げられ、警笛がブーブー鳴らされて、亀のようにゆっくり進んでいた。

ポーランドは、こういうデモも行われていることを知った。

周りの人たちは、別に文句も言わないで平常の行動をしていた。

タクシーは、お客さんも乗せていたからびっくりした。

日本では、ちょっと見られない光景だった。

ホテルに戻って、バスで出発するのにデモで遅れるのではないかと心配したが、別ルートを通って時刻より前に空港に到着したので、またまたびっくりだった

みんな慣れたものなのね。

ショパンに触れたのが最高でも、それだけではない負の歴史の勉強も沢山することになったポーランドの旅。一見は百聞にしかず。知らないことが多かったわ〜

長い旅行記にお付き合いしてくださった方、有り難うございました。